Web法学周辺教員・研究

WEB法学周辺は、立教大学法学部発行の冊子『法学周辺』掲載の教員自己紹介、学生へのメッセージ、法学部で学ぶためのアドバイス、学部の新しい取り組みなどのコンテンツを中心に、本学部からさまざまな発信を行うスペースです。

「エッセイ」

法学部創設60年と宮沢俊義 原田一明
昨年(2019年)4月8日、立教大学法学部は、60回目の誕生日を迎えました。人間なら、めでたく還暦ということで、それなりの荒波を乗り越えて迎えた区切りの年ということになります。法学部創設時の新入生は200名(2019年度1年生の数は578名)で、専任教員数は、17名(現在42名)だったそうです。初代学部長は、当時、誰もが認める憲法学の第一人者で、その年の3月に東大法学部を退官されたばかりの宮沢俊義先生でした。先生は、1899(明治32)年のお生まれですから、奇しくも、昨年は、法学部創設60年と宮沢生誕120年の記念の年に当っていました。そこで、法学部の創設者のお一人である宮沢俊義の教育者としての一面と初代学部長として宮沢が立教大学法学部に託した想いの二つの側面について、この場を借りて、紹介してみたいと思います。

ただ、残念なことですが、いまの学生に、宮沢俊義といっても、ほとんど知らないというのが実際のところだと思います。そこでまず、ごく簡単に宮沢のプロフィールを紹介しておきます。先生は、長野県のお生まれですが、中学2年のときに東京の府立4中(現在の都立戸山高校)に編入学され、その後は、第一高等学校、東京帝国大学を卒業し、東京帝国大学法学部の憲法教員となられた文字通りの俊秀です。しかし、若き日には、ある意味われわれと同じく「青春のてつ」を経験されたようで、一高での一級先輩の林達夫が次のような興味深いエピソードを紹介しています(「一高時代の友だち」同『林達夫著作集6 書籍の周囲』(1972年)296頁)。

「(林達夫が)文芸部委員をやっていたとき、一級下の宮沢俊義のもってきた、創作を没書にしたという一事件がある。当時、芥川龍之介の華々しいデビューのときで、その影響を明らかに受けた公卿物の甚だ腕達者な小説であったが、そのあまりに巧すぎるというのが没書にした理由であったのだから、己れを省みず妙な見識ぶりを発揮したものだ。彼が押しも押されぬ大学者になってから、ある時そっとそのことをひとにもらしたが、するとその男、河野與一は『じゃ、奴のうちの文学者を殺したのはお前だな』といったから、わたくしはすかさず答えたものだった。『その代わり彼の憲法学者を大成させたのはこのオレだ。』

後に高見順が一高に這入って内心得意で投書した小説が没書の憂目にあって出鼻を挫かれてそのため社会思想研究会へ奔ってそこで思わぬ拾い物のいい勉強をしたという例もあるから、わたくしの処置もいまでは一種のスパルタ的善行だと認めることにしている。」

私は、この回顧談を、今から40年ほど前、精神的右往左往を繰り返していたときにたまたま目にしたのですが、人との出会いの不思議さ、挫折のない人間などいないのだと気づかされた想い出とともに、いい話だなあと、いまでも忘れ得ぬ印象深い話として心に残っています。

* * * *

こうしたえにしに導かれて、6年前に本学に赴任して以来、宮沢が遺したノート類や未公表の原稿・資料などが収められた宮沢俊義文庫を少しずつ読み続けているのですが、正に、日暮れて道遠し、宮沢の思想をトータルに理解することの難しさを、日々、実感しています。

さて、そんな折、本紙への寄稿が求められたのを機に、宮沢俊義文庫に収められている立教大学での講義などに使用したテキスト類や当時の宮沢自身の憲法演習の手控えノート(宮沢俊義文庫J-23「公法演習&講義(覚書)研究指導」)等を頼りに、宮沢が、立教大学で、どのような講義をしていたのか、特に立教大学での宮沢ゼミの授業風景の一コマをスケッチしてみようと思い至りました。

1961(昭和36)年度の憲法ゼミ(おそらく宮沢による立教大学でのはじめての演習)は、「憲法判例研究」と題されて、『憲法教材第一集(1952年)、第二集(1956年)』(このときの宮沢自身の書き込みがあるテキストも宮沢文庫に所蔵されています)を用いて行われています。その第一回目の課題判例は、最高裁判決が出る前の尊属殺重罰事件で、春学期最後の天皇プラカード事件まで、対象判例と担当者の氏名が、宮沢のノートに記されています。宮沢憲法ゼミの特色として興味深いのは、第1回目こそ、1件の判例だけを扱っていますが、その後の演習では、参加人数の関係からかもしれませんが、1回につき、2ないし3件の判例(秋学期は3~5件)が取り上げられ、かなり密度の濃い、学生にとっては準備が大変な演習であったと思われることです。また、優れた報告には、報告者の横に「très bien !」と大書されています。さらに、最終的な成績評価についても、出席点に加えて、別途、「試験に代えてレポートを出させることにする」として、ゼミ生には、「憲法教材、Ⅱ集、第78事件[裁判所法施行法等違憲訴訟(最大判昭和23年7月8日)]及び第79事件[警察予備隊違憲訴訟(最大判昭和27年10月8日)]について」のレポートを課し、両事件を通じて、当時の最先端かつ難問の一つであった違憲立法審査権について考えさせようとされています。このようなことからも、教員としての宮沢が、立教の学生に対してもまったく手を抜くことなく、その当時の最高水準の教育を伝授しようと熱意を以て学生に対峙していた姿が伝わってまいります。

翌年の1962年度は、テキストとして、清宮四郎・佐藤功編『憲法演習』が用いられ、前年度の判例研究とは異なって、憲法学上の諸論点について、報告・討論するという形がとられています。また、1964年度のテーマは、「憲法の諸問題」で、テキストには、前述の『憲法演習』に加えて、芦部信喜によってその前年の1963年6月に初版が刊行されたばかりの『憲法判例百選』が挙げられ、その年の夏休みには、ゼミ生に最新の大法廷判決に関する次のような宿題が課されています。

「夏休み宿題次のどれか(みんなでも可)をThemaとしてreportを書くこと」
「1)学問の自由と大学の自治(Popolo事件)憲法判例百選21[最大判昭和38年5月22日]
2)地方公共団体の性質憲百選101[最大判昭和38年3月27日]
3)統治行為(苫米地判決)憲百選96[最大判昭和35年6月8日]」

以上からも、教育者としての宮沢の学生に対する行届いた手厚い指導の様子が見て取れます。勿論、そうだからこそ、学生に対しても一定の水準を求めていたようで、1961年度のゼミ生の数は、名簿上は、43名の大所帯でしたが、成績がついた学生の数は31名にとどまっています。この数字などを見ておりますと、宮沢先生にとってのゼミは、正に真剣勝負の場であったことが窺えます。翌年の1962年次生は、名簿上、3年生が7名、4年生が20名の合計27名で、とりわけ3年生が激減しているのは、いつの時代も変らぬ学生気質を垣間見たような心地がするとともに、当時も今も、学生が大学(教員)に何を求めているのか、との問いを不意に突きつけられたようで、何とも言えない居心地の悪さを感じます(ただ、1965年度は、「志望者過多につきくじで決めた。約50人(?)」と記載されています)。

* * * *

次に、学部長としての宮沢に目を転じましょう。この点については、宮沢自身が、『法学周辺第1号』の「創立1周年を迎えて」というエッセイの中で、立教大学に法学部を設けることの意義、条件について、率直に、教員と学生に語りかけています。

「第一の条件は、法学部は教授団を構成する諸君が、法学部新設の意義をじゅうぶん理解し、それぞれの研究分野において、学界の水準を高めるような業績をうみ出すことです。大学学部は何よりも学問研究の場です。その教授団の学問的精進なくしては、大学学部はそもそも成り立ちません。第二の条件は、学生諸君が同じように法学部新設の意義を正しく理解し、教授団に協力することです。この協力は、何よりも講義を聞き、それにもとづいて各自それぞれの科目について自主的な研究にいそしむことにおいて行われますが、決してそれだけではありません。憲法の精神をわきまえた民主主義的な大学生となり、市民となることも、そうした協力にほかなりません。

教授団と学生諸君とのかような協力によってのみ、われわれの新(ママ)しい法学部は、その独自の存在理由を誇ることができるのです。」

ここには、戦前、「天皇機関説事件」という酷烈な学問弾圧の時代を耐え抜いた人だからこそ語り得る、学問研究の大切さという宮沢の想いがストレートに表現されているように思います。この宮沢の熱い想いについて、宮沢学部長を学科長として支え、宮沢が亡くなったときには立64教大学総長として弔辞を読んだ尾形典男も「立教での宮沢先生」というエッセイの中で、「自由の人宮沢先生を学部創設の人としたことを誇りに思う」(ジュリスト634号170頁)と結んだ上で、次のように述懐されているのが印象的です。

「先生は立教の法学部を独自の存在理由をもつものにしようという並々ならぬ熱意をもっておられた。したがって、学部における学問研究の態度を既存の他大学の法学研究への批判において方向づけ、確立しようとしておられたであろうことも推測に難くない。先生は、人間の幸福と生活との係わりにおいて、つねに研究が問い直されなければならないという学問研究態度の方向づけを学部に期待されたものと思われる。」

「先生は立教法学部に『制服』を着せようとはされなかった。『相対主義は、何が正しいか、何が間違っているかを自分で決定するという難しい任務を個人に課する。』…と。」

確かに、いまの大学を「一握りの好学的秀才」を中心に考えることは現実的とは言えないでしょう。しかし、だからといって、大多数の学生は、体系的思考や論理的操作には向かないと最初から諦めて、大学から学問研究の看板をあっさり下ろしてしまうことにも躊躇を感じます。

60年後の学生のみなさん方は、こうしたファウンデング・ファーザーの言葉をどのように受け止められるでしょうか。
「社会運動論」にまつわる問いをめぐって 中村陽一
「なぜ社会運動の研究を?」という問いは、シンプルなだけに自身の生き方の本質を問うものとして私の前に横たわっている。

一面では、それはほとんど何の違和感もない(つまりあらためて問うようなものではない)問いである。しかし、他方、(考えてみれば当たり前だが)自身の内外に存在しうる多様なアイデンティティから光をあててみれば、いくつかの点で重要な気づきと学び、そして反省につながりうる問いであることも率直に認めなければならないと思う。

つまりこういうことだ。私は30代の終わりまで、民間在野の立場で社会運動・市民運動に関わり、地域の人びとによる後の市民活動、NPO/NGOにもつながる諸活動(当時、「生活の場からの地殻変動」と私は呼んだ)と研究の場とを往復してきた。また、そこでのテーマ群を基盤として、他方では政府行政や民間企業との仕事にも携わってきた。

それらの仕事を見つめてくださった方々とのご縁やサポートもあって、90年代前半から徐々に大学に場を移し(そうしたスタイルの教員の走りであったかもしれない)、30年近くになるものの、いまだ私にとって大学はある種のアウェイ感(これは私の仕事の仕方の基底にあるものである)を伴う場であり、一種の珍獣として身を置いている。そんな私にとって、なぜ社会運動の「研究」をするのか?という問いは正直今更ながらの問いだったといってよい。

もちろん、問いがなかったわけではない。しかし、それは、あらゆる運動の現場に出入りするときに問われる、そして自らにも問わざるを得ない、「お前は活動家なのか、それとも学者先生なのか」といった種類の問いであった。結局、いまだどちらでもないし、どちらでもありうるという禅問答のようなことしか言えないのだが、そこはギリギリと厳しく問われ、自問もしてきた。

しかし、何年か前、授業科目「社会運動論」のゲストスピーカーとしてお招きした30年来の畏友・大畑裕嗣明治大学教授の問いは、2つの意味で私を反省させるに十分なものであった。一つは、「研究」という営みにもっと向き合う必要、もう一つには、学生が持ちうる問いにさらに向き合う必要である。

考えてみれば、運動の場で問われ、また自問もしてきた、要するに「お前は何者なのだ」という問いと、なぜ「研究」(これをたとえば「取材」ということばに置き換えても事情は同じなのかもしれないが)というスタンスをとるのかという問いは地続きのものである。なまじ現場とのつながりのなかで生きてきたという感覚が、そうした問いから身を逸らすことにつながっていたかもしれないというのが最初の反省である。ただし、「活動家」「編集者」「研究者」という立ち位置の相互乗り入れ(P・ブルデューの言い回しに倣うなら「編集者的研究活動家」etc.)や「コーディネーター」「ネットワーカー」「ファシリテーター」「エディター」「プロデューサー」「ディレクター」等々の存在態様をめぐっては、いやというほど議論を重ねてきたのだが。

次なる反省についてはこういうことである。もともと、「社会運動」をめぐって、学生との間には当然、果てしないほどの距離感や壁や溝があるだろうと私は考えた。であれば、まずは些末なところからでも興味を引こう、簡単にはわかり合えないという地点からスタートして、少しでも取りつく島(ビジュアル映像の重視もその一つ)をつくるようなコミュニケーションを考えようという意図が、シラバスにも表れている。シラバスを一種の広告表現のようにとらえる感覚もまたそこにはある。それはそれで必要な選択だと今でも思ってはいるものの、しかし、それが本当に学生とのインターフェイスのつくり方として妥当だったかどうかという問いである。

これについては、既に4年目が終わろうとしているニッポン放送『おしゃべりラボ~しあわせSocial Design』(毎週土曜朝7:40~8:00)でパーソナリティを務め、ゲストとのトークを通じて、より幅広いリスナーに届く表現を追求してきた試み、舞台芸術分野(とりわけ演劇)と深く関わりつつ新しい表現の可能性を模索してきたことなどが私の現在の試行錯誤となっている。

さて、上記シラバスの文言は、「きれいすぎ(やし)ないか」という大畑さんの挑発?に乗って以下書きたい。

私が立教大学で18年間にわたり、今では珍しくなった通年科目として続けている授業「社会運動論」は、法学部法学科の専門科目として、学部2年生以上の学生が履修できるものである。「法学部法学科の専門科目」でなぜ「社会運動論」(しかも通年4単位!)なのかというところが面白く、またこだわりどころでもあると考えて続けてきた。

すなわち、受講者の多くは、社会運動はもとより市民運動や住民運動を学ぼうと思って入学してきた学生ではない(少数の他学部学生や大学院生、科目履修生などには例外もあるかもしれない)。かなり微温的にNPO/NGOとか、市民活動といっても、おそらく事情はさほど変わらないであろう。まして社会学的な社会運動論となると、興味を持つ者さえ皆無に近いのではないか。

実はこの科目の前任者は、読者の皆さんもよくご存じのはずの栗原彬先生であり、それは遙か昔40年近く前、学部の卒論をまとめる際に先生の著作群にいつも影響されて、指導教員であった故・佐藤毅一橋大学教授(当時)に「中村君、また栗原君読んだね」とからかわれていた私にとっては、相当に緊張感を強いられることであった(ちなみに、やはり卒論時に影響され続けていたのは見田宗介=真木悠介さんである)。しかも、立教法学部(政治学科だが)の系譜から言えば、神島二郎、高畠通敏といった頂にも連なる領域である。

佐藤先生は、南博と高島善哉という趣の異なる二人の師匠をもち(後に編集者として、目がご不自由だった高島先生の著作を口述筆記でまとめあげるという至福の時間を持つことになる奇しきご縁もあって)、その二側面は知らず知らずのうちに私にも入り込んでいる(ような気がしている)。半ば強引にいうなら、一つは社会デザイン、もう一つは市民社会という通底音・通奏音である。前者は後から考えればという注釈付きだが。

さらにあげておきたいこの科目の背景は、立教での私の仕事の中心が、創設準備期から携わってきた社会人対応の、学部を持たない大学院である独立研究科「21世紀社会デザイン研究科」にあるということだ。いわば社会デザインは、社会運動からスタートして市民運動・住民運動・NPO/NGO・市民活動・SB/CB(ソーシャルビジネス/コミュニティビジネス)等々に関わり続けてきた私にとって、少なくともこの20年近くは、到達点であると同時にたえず「問い」にさらされてきた「場」(再度ブルデューに倣い、「界」といってもいいのかもしれないが)でもある。

加えて、私の前歴も影響している。既に挙げた錚々たる研究者の仕事、そして、幸か不幸か社会科学系の出版社にいたため、編集者としてご一緒できたこれまた曼荼羅と言っていいような世界の住人たる著者たちの仕事に接し、これと同じことは到底できないと悟った私は、(実は編集者という仕事についても、付いた師匠が偶然にも出版界において後に突出した仕事でその名が知られることになる人だったこともあって)自らが表現できる場を別に求め、同時に仕事のスタイルも抜本的に変えた。

こうした偶然の積み重ねがこの授業のバックステージには横たわっている。そこには確かに「木の葉のざわめき」がある。シラバスはその舞台、しかも公演へと誘うフライヤーでもある。そこにある「無数の問い」(これは先年、国立歴史民俗博物館で行われていた企画展示『1968年』の課題意識)にたいする私の表現は授業のなかでぐだぐだ感を伴いつつ、試行錯誤しているととりあえず述べておこう。

そして、最後に「社会運動論へのはいり方」をめぐって。本当はここが肝腎のテーマだろう。文字数のオーバーを気にしつついうなら、わたしにとってそれは、「生と分かちがたく結びついた場」「自己回復への模索の場」における表現としての社会運動への入口をたくさん用意するということに尽きる。

それは、たとえば、カウンターカルチャーという万華鏡のような表現(と同時に、ジョセフ・ヒースたちが、その帰結として批判したような消費文化への流れ)、アメリカにおける現代社会論の系譜ともつながるソーシャル・キャピタルやサードプレイスの議論、横浜新貨物線反対運動という舞台から「公共性を撃つ」という視座の転換をもって現れいまも私たちに迫り続けている宮崎省吾たちの議論、今井照(『地方自治講義』)によって再び舞台に乗せられた「最適社会かコミューンか」(真木悠介-松下圭一)という問い、私の現在の同僚でもあり、かつて湯浅誠とともに自立生活サポートセンター・もやいを担ってきた稲葉剛(現・つくろい東京ファンド代表理事)の新たな取り組み、多くの著作で英国の底辺から問い続けるブレイディみかこの叫び、釜ヶ崎で表現の場を創り続けるココルーム・上田假奈代の活動、20代で書いたという『チャヴ』に私も衝き動かされるオーウェン・ジョーンズの「知性に裏打ちされた」怒り、など枚挙に暇がないが、それらの引用で応えることは止め、私自身が紡いだことばで締めくくりたい。

かつて「野生の社会学」の可能性を見出すことともなり、生活クラブから発生した諸活動を追いかける契機ともなった岩根邦雄との出会い。そこにもう一度立ち還ることから問いを始めようとした拙稿(「岩根邦雄『おおぜいの私』による社会運動」『シリーズひとびとの精神史第6巻日本列島改造1970年代』岩波書店、2016年、所収)から。

「個人が集まって『おおぜいの私』さ。私と私が『交通』するところにしか連帯は生まれない」と、一人ひとり異なる個人の数だけ生活クラブがあると考えた岩根の(あえていうなら)「美学」(中略)

かつて岩根と生活クラブが、例えば「消費材」という切り口から問うた地域からの「おおぜいの私」による社会運動は、いまどのような表現を獲得できるのか、いまでも、そのヒントは、ぎりぎり本気になって学び、考え抜くことによってしか得られないに違いない。

(補)2020年度、研究休暇を取る関係で、「社会運動論」は文中にもお名前をあげた稲葉剛さんにご担当いただくことになっている。
私が知るほんの幾つかの回顧録と評伝について 佐々木卓也
私は専門とするアメリカ外交史、日米関係史を研究する上で、回顧録、評伝を利用することが多い。それは私の研究の出発が、冷戦期の主要な政治家、外交官らの外交構想に焦点をあてたことから始まっていることが関係しているのかもしれない。あるいは歴史は時代的制約の下、人物によって相当な部分がつくられると考えているからかもしれない。いずれにせよ回顧録、評伝は好きな読み物であり、専門に関係する場合にはだいたい目を通していると思う。本エッセイは、この分野における私のささやかな読書遍歴の紹介である。取り上げる本は古本を含め、現在もすべて入手可能であり、本大学図書館(+山手線コンソーシアム)でも借り出すことができる。

私は記憶をたどっていくと、大学に入って最初に惹かれた人物評伝はD・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』(サイマル出版会)ではないかと思う。それまで読書といえば入試勉強の合間の推理小説に限定されていたが、さすがにそれではまずいという思いがどこかにあり、上京後、入学した大学への行き帰りの電車で古今東西の小説を読むことを心がけた。やがてそれがいろいろな分野に広がり、たまたま当時サイマル出版会(翻訳を中心に良書を出版していたが、その後経営破綻してしまった)より出されていたこの本を手に取った(現在は二玄社より刊行)。時間だけは自由にあるという学生の特権をふんだんに利用し、それこそ時間がたつのを忘れ、翌朝までに一気に読了した記憶がある(今はそのような馬力も気力もない)。ハルバースタムは戦後アメリカを代表するジャーナリストの一人で、この本を出世作とする。しかるべき家庭に生まれ、しかるべき教育を受け、しかるべき職を経てケネディ政権に集結した「最良にして最も聡明な人々」がなぜ建国以来の(当時)最大の愚行といわれたベトナム戦争への泥沼的介入を行ったのか、それがハルバースタムの最大の問題関心である。間違いなくその答は、これらエリートの多くが大西洋しか知らない「田舎者」であったことと、そのような自覚さえも持たない彼らの傲慢さにあった。私は本書の視界にベトナム人がほとんど入っていないことに物足りなさを覚えたが、この本がアメリカ現代史の金字塔であることは間違いない。浅野輔の訳も鮮やかである。私は今でもゼミの学生に勧める本の一つであり、ゼミ合宿で取り上げることも多い。

十年ほど前に刊行され、話題を呼んだJ・マン『ウルカヌスの群像ブッシュ政権とイラク戦争』(共同通信社)はおそらくこの本を意識しており、イラク開戦でも繰り返された傲慢なエリートの愚行の書と読むことができる。政権に近いある人物が開戦直前に戦争は「朝飯前c a k e w a l k」と言い放ったことは有名である。ただしマンの本は圧倒的な迫力と緻密な展開という点で、ハルバースタムに遅れをとっていると感じる。

私は学部専門ゼミで国際政治史、外交史を勉強し、やがて冷戦史に興味を持つようになった。そこですぐに遭遇したのがR・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ」(みすず書房)である。著者は著名な劇作家、映画脚本家(『哀愁』『我等の生涯の最良の年』など)であり、F・D・ルーズヴェルト大統領のスピーチライターを務めた。ルーズヴェルトは演説の旨さに定評があったが、その蔭にはこのような練達の文章家がいたのである。この本はルーズヴェルトと彼の側近のH・ホプキンズとの関係を軸に1930年代~40年代半ばのアメリカの政治・外交史を叙述する。刊行以来すでに70年を経ているが、依然としてこの頃のホワイトハウスの内情を知る上で最上の本、まさに名著ではないかと思う。数年前に未知谷出版より復刊されたことは喜ばしい。当時のアメリカはもちろん日本の敵国であるが、この本を読むと、彼我の指導者の見識と視野には雲泥の差があることを認めざるを得ない。

同じ頃に興味を持ったのは、冷戦期封じ込め政策の提唱者のG・ケナンであった。これはゼミの指導教官であった細谷千博教授がシベリア出兵の研究を共通項にケナンと親しく、教授がゼミで時々ケナンを話題にしたことが影響していよう。ケナンは戦後日本のあり方を決する上でも重要な役割を果たした人物である。彼の『ジョージ・F・ケナン回顧録』(読売新聞社)は長く入手が困難であったが、最近中公文庫版で復刊された。これは第一級の読み物であり、内容も面白いが、私にはケナンの何とも流麗な筆致が印象的であった。ケナンは亡くなる直前に齢98歳にてイラク開戦に公然と反対するなど、最期まで時流に流されない芯の強さを貫いた硬骨漢であった。

ケナンの伝記の決定版はJ・ギャディスが2011年に刊行したGeorge F. Kennan: An American Life(Penguin Press)であり(残念ながら翻訳書はない)、本書はピューリッツアー賞を受けた。ケナン伝の執筆はギャディスのライフワークであったが、随分と刊行が延びた。それは1970年代末に、まだ40歳になるかならないかでありながら、すでに優れた冷戦史研究者として高い評価を得ていたギャディスが、1904年生まれのケナンと契約を結び、ケナン文書への自由なアクセスを得て、ただし刊行はケナンの死後を条件に、伝記の執筆を引き受けた経緯があったからである。ところがケナンは大変な長寿で、亡くなったのは2004年であった。本の出版にはそれから7年が必要であった。この本は、私がアメリカ留学中に指導を受けたギャディスの長年の研究の集大成である。

私はさらに独立革命以降のアメリカ政治・外交の文献も読み進めたが、建国の父の回顧録では、B・フランクリン『フランクリン自伝』(岩波文庫)が最も有名であろう。この本は植字工から出発して発明家、政治家、外交官、さらには実業人として成功したフランクリンのマルチな能力と魅力を十分に伝えている。日米の数多い自伝のなかで、フランクリンの自伝と双璧をなす面白さを誇るのが、福澤諭吉『福翁自伝』(岩波文庫)である。私は昔、福澤の自伝を電車のなかで読んでいて思わず吹き出したことが一再ならずあった。己を重要視せず、むしろ笑うことができる人物の回想は面白い。建国期の人物伝では、ロン・チャーナウ『アレグザンダー・ハミルトンアメリカを近代国家につくり上げた天才政治家』(日経BP社)が傑出している。ハミルトンは初代財務長官を数年務めたに過ぎないが、ワシントン大統領の右腕として合衆国の土台作りに絶大な力を発揮した政治家である。一般の読者のみならず専門家をも満足させる重厚な書がベストセラーとなるところに、アメリカ社会の侮ってはならない質の高さがある。この本は、現在もブロードウェイで公演が続いているミュージカル作品「ハミルトン」の原作である。

私はやがて日米関係史にも関心を広げたが、この分野の偉大な先達である入江昭、宮里政玄、麻田貞雄がそれぞれ『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書)、『学問と現実の津梁戦後沖縄を生きて』(琉球新報社)、『リベラル・アーツへの道アメリカ留学とその後』(晃洋書房)を残している。いずれも個性的で読み応えがあるが、麻田が最も率直に、時には余りに率直に自己の精神史、学問的苦闘を語っていて興味深い。私は十年ほど前に日米関係の通史を共同で執筆し、出版する機会を得たが、私が担当した戦後部分に対して、麻田より手厳しく批判する手紙をいただいた。他の執筆者にも似たような手紙が行ったとのことで、麻田が最も得意とする戦間期を担当した方々は徹底的に批判されたという。麻田は見事な業績を日米で発表した学者で、私は彼が健在であった頃、日米関係史の研究会でアメリカ側出席者がProfessor Asada が来ると聞いて、緊張し慌てていたことを覚えている。ギャディスが最も高く評価し、敬愛する日本人外交史研究者は麻田であった。

戦後日米関係では駐日大使の役割が大きいが、G・パッカードによるE・ライシャワーの評伝『ライシャワーの昭和史』(講談社)は素晴らしい。私が本書を読んで彼を凄いと思ったのは、入江、パッカードをはじめ、教育者ライシャワーが多くの研究者を育てたハーヴァード大学教授時代や日米新時代を演出した駐日大使時代というよりも、ライシャワーが第一線を退いた後、優れない体調を押して、1980年代にいわゆる対日修正主義者に堂々と論戦を挑み、彼らの誤った考えを糺したことであった。

最後に、暗い国際関係のニュースが相次ぐ中、最近最も勇気づけられたアメリカ人女性の回想録を二冊紹介したい。前大統領夫人のM・オバマの『マイ・ストーリー』(集英社)とヒスパニック系女性として初めて連邦最高裁判事に就いたS・ソトマイヨールの『私が愛する世界』(亜紀書房)である。二人は元々類い希な能力の持ち主なのであろうが、明るく前向きな人柄とひたむきな努力で、社会の差別の壁を切り開いて前に進んでいく様は感動的である。この二冊の本を読んでいて思い出すのが、ニューヨーク・タイムズ紙の看板記者であったJ・レストンが、1977年春にM・サッチャーが英保守党の党首となり、主要国の中で最初の女性宰相となる可能性に触れた記事である。レストンはそこで、人類の歴史がほとんどが男性による愚行と戦争のそれであったことを念頭に、女性宰相サッチャーが誕生しても、彼女が「血にまみれた男達よりも悪いはずはない」と書いた。私は昨今の殺伐とした国際政治をみるにつけ、レストンの醒めた分析に大いに共感、共鳴するのである。

オバマとソトマイヨールの本は、多くの問題を抱えながらもアメリカ社会の奥行きの深さと可能性を示しているとともに、学校教育の重要性と人生の節目節目で手を差し伸べる友人とメンターの存在が大きいことを改めて教えてくれる。

この拙いエッセイを締めくくるにあたり、私が大きな影響を受けた回顧録であるS・ツヴァイクの『昨日の世界』(みすず書房。昨年、同僚の小川有美教授が学部HP でこの本に言及していることに嬉しい驚きを覚えた)で、著者がギムナジウムを終えたばかりの若者を対象に回顧した言葉を、私の自省の念も込めながら、学部生の皆さんに贈りたい。「精神的なものへの飛躍、魂の内的な把握力はただあの形成の決定的な歳月においてのみ鍛え得られるものであり、年若くして魂を広く拡げることを学んだ者のみが、後に全世界を自己のうちに捉えることができるのである。」
自分の頭で考えてみよう! 藥師丸正二郎
一 はじめに

『法学周辺』のエッセイへ投稿することが決まってから、何を書こうか迷っていた。キャリア支援を担当しているのだから、「私の履歴書」的な話も良いかと思ったが、これは昨年出版されたキャリア教育の本1)に書いてしまったので、やめることにした。迷った結果、読者が法学部生であること、そして自分が多く学生と触れ合う機会のある法学部のキャリア支援に関連するもの2)が良いだろうと思い、筆を執った。

キャリア支援と一口に言ってもその範囲は広いため、本稿では、学生との面談、更にエントリーシート(以下、ESと略す)の書き方等の講座での指導を通して感じたこと、また質問が多かったことについて例を挙げながら、一緒に考えてみようと思う。

1)古閑博美編著『わかりやすいキャリア学:成長するためのキャリアデザイン』156-158頁(学文社・2018)。ここでは、人生の目的(3つ)を定め、その達成手段として、様々な行動をとってきたことやなぜ法律や観光に興味を抱いたのかなどを記している。
2)法学部のキャリア支援に関しては、これまでも『法学周辺』のなかで、「法学部のキャリア支援について」というテーマで紹介されているから、関心のある人は読んで欲しい。
二 企業側の認識と学生の認識のずれ
1 自分の頭で考えてみよう!

四年生になると就職活動に使用するため、三年生の場合、インターンシップに参加するため、ESを書く機会が増える。毎年、ES対策の場合、200人前後、面接対策については毎年平均80名位と面談を行っている。これらの経験を通して、気になることがあるので、今回は、「学生時代に力を入れたこと(いわゆる「学チカ」)を例に、「企業側の認識と学生の認識のズレ」について考えたいと思う。

学チカに関する質問は、多くの企業、官庁などの採用試験で問われている。そして、その回答において、多くの学生が、サークル、あるいはアルバイトのエピソードを挙げながら記述している。正確に数えたわけではないが、どの企業の人事の方と話しても、約6割から7割は、「サークル、アルバイト」ネタのようである。

この現象は、法学部生を対象にしたES指導においても同様に生じていたため、大学生一般に共通する事象と言っても誤解はないであろう。このことを裏付ける面白い話があるのでここで紹介しよう。

昨年(2018年)のことであるが、国内飲料メーカーで首位を独走する企業の人事の方が大学にお越しになられた際、開口一番、「いまの学生は、勉強はしないのですか?」と聞かれたことである。その理由を問うと、同社に応募する学生のESをみるとほとんどの学生が、アルバイトとサークル活動のエピソードを例に「学チカ」を語り、その記述パターンもほとんど同じだというのである。その方が言うには、みんな同じに見えてしまい、これだけではまったく差がつかないというのである(いわゆる金太郎飴現象)。

このような現象が生じていること自体は、私も承知していたし、学生がネタとしている本もある程度特定できていたため、その場では、記述パターンが同じ理由とネタ本が何かを伝えておいた。

他愛もない日常会話ではあるが、現在の就職活動中の学生の「戦略の甘さ」、すなわち自分の頭で考えていない事例としてちょうど良いと思い、ここで取り上げてみることにした。

ES対策を行う際、戦略上、守らなければならないポイントがいくつかある。今回の問題では2つ重要な点を見落としている。それは以下の点である。

初めに断っておくのだが、学チカでサークルやアルバイトのエピソードを用いることは否定するものではない。しかし、このエピソードで戦う場合、以下の二つを意識するべきである。第一は、他の多くの学生が事例として書くことから、他の学生と比較され易いこと。第二に、そのエピソードを見て判断するのは、ビジネスの第一線で活躍している社会人である。従って、当該エピソードから社会人として求められる資質を十分に満たしているか否かが比較され易いことである。学生視点で「大変」だとか、「凄い」と思って書いたとしても、ビジネス経験が豊富で、数々の修羅場を潜り抜けている社会人からみれば、「アピールポイントとして十分でない」と評価されることも多い。このように同じエピソードを用いることは、他の就職活動学生と比較され易い上に、企業側からも内容について評価されてしまうリスクを伴うのである。以上の理由から、「サークル」「アルバイト」エピソードで闘うときには、十分な準備と配慮が必要であることを理解しておくとよいだろう。
2 「なぜ(Why So)?」を大切に!
このことは「学チカ」に限ったことではなく、その他の質問項目でも同じことが言える。大切なことは、相手の目線に立って、「なぜ、この質問をするのだろう?」「この質問をすることにより、自分のどのような資質や能力があるかを知ろうとしているのだろう?」といった面接官の意図を考えることである。

「学チカ」の質問からいくつかの資質や能力の有無を確認できるが、誤解を恐れずに言うとすれば、企業がこの質問から知りたいのは、一つである。それは、あなたの「頑張る力」はどれくらいですか?という問いである。

考えて欲しい。100名受験して一人が選ばれる採用試験があったとする。もちろん第一志望の企業である。学生としては失敗したくないことから、真剣である。もっとも、一度採用してしまうと解雇することが困難な我が国の法制度下において(労働契約法16条参照)、沢山応募してくれている学生の中から、一人を選ぶ企業側も失敗は許されないため真剣である(このようにお互いが真剣勝負なのである)。

このような状況で100名の志願者に対して、質問する。「あなたはわが社に入社したら、頑張れますか?」と。あなたならどうするだろう。きっと「はい。頑張ります!」と元気よく答えるであろう(まったく自信がなかったり、本当は第一志望でなくとも!)。このことは、他の就職活動をしている学生も同じ答えをするに違いない。

このような中で一人の学生を選ぶとしたら、未来を見通せる能力を持った人事担当者でもない限り、「本当かな?」と頭の中に「?」が浮かぶはずである。
この疑問を払しょくさせるために、「学チカ」の質問があるのだ。すなわち、一般的に人間には未来を見通す能力がないので、その学生が本当に入社した後に自社に貢献してくれるかどうかは分からない。そこで、未来を予測する手がかりとして、過去のエピソードを聞くことにより、その人のレベルを推測するのである。「現在」は「過去」の延長線上にあり、「未来」は、「現在」延長線上にあることから、「過去」のエピソードを掘り下げることにより、「現在」と「未来」の「頑張る力」を知ろうとするのである。

この意図が分かれば「学チカ」で学生が問われているものがわかるはずである。すなわち、「何を頑張ったか」という対象も重要であるが、「どのように頑張ったか」という実質面に質問の意図が置かれていることに気づくだろう。

法学部らしい例を出して考えてみよう。「私が在学中に最も力を入れたのは民法のゼミです。ここでは、判例研究を行いました。」と答えたとしよう。

上記意図を当てはめるのであれば、「判例研究」をしたこと自体が重要なのではなく、「どのように」あるいは「どこまで掘り下げて」判例研究を行ったのかを、しっかり説明できることが重要なのである。例えば、判例研究を行うプロセスとして、上図のように7段階に分けることができたとしよう。

①のレベルで終えた学生から、④のレベルまで調べて報告した学生、さらに⑦のレベルまで調べて報告した学生がいたとしたら、どの学生を選んだほうが企業に貢献してくれそうだと思うだろう?これら全員「ゼミでは判例研究を行いました。」というエピソードで、「学チカ」経験を語ろうとしている点では共通しているのである。

答えは明白であろう。三人目の⑦のレベルまで調べた学生であれば、入社後、資料を作らせたり、調査を行わせたとすれば(時間とコストの関係を除けば)、①レベルで学んだ学生よりも、きっと企業に貢献できる仕事をしてくれると考えるのではなかろうか。これが分かればES、面接対策としては、どのようなエピソードを挙げて「学チカ」を説明するとしても、「何を」「どのように」「工夫して成し遂げたのか」など、エピソードが具体的で、深く掘り下げられたとして説明できるものを選択することが重要であることがわかるだろう。

ここまで考えると、就職活動のエピソードとして「アルバイト」や「サークル」を挙げることのリスク、逆に、ゼミや研究などの「大学での学修」を挙げる場合の有効性について気付くことができるだろう。「大学での学修」はこれを主張する学生も少ないため、比較されにくい上に、自分の経験を語れば良いため、自分の言葉で説得的に話すことができるのである。法学部のキャリア支援として行っているES対策、面接対策などのガイダンスは、上記のように企業側の目線で一つ一つの「質問の意図」を分析し、「学生の視点」ではなく、「採用する側の視点」で物事を考える思考力を養う訓練を行っているのである。

本稿では、就職活動を例に自分の頭で考えることの大切さを論じてみた。就職活動に限らず、物事をその意図や趣旨にまで遡って「考える習慣」を普段の学修の中から身に着けてほしい。

三 最後にひとこと

キャリア支援を通して、皆さんに伝えたいことはたくさんあります(今回の原稿も書き始めたらこの倍以上になってしまい、ようやくここまで減らすことができました…)。これらの多くは私自身が多くの方々から伝えていただいたこと、さらに学ばせていただいたことです。いまの私にできることは、自分が伝えられた「知識」、「知恵」、「縁」などを、一つでも多く後輩でもある皆さんに伝えることです。

そして、最後には「自らの臨む人生及びキャリアを、自らが選択して、切り拓いていける力を養い、実行できる人物」として社会に旅立っていただければと考えています。これからも講義やキャリア支援企画などで話す機会があるかと思いますが、その時には、宜しくお願い致します。
院生時代の思い出 平井光貴
大学院生時代に、有志が集って私的研究会を開催し、各々の研究分野に関する知識を披露し合うことで、研究者志望の者にはありがちな専攻分野への視野狭窄から離脱してお互いの学問的見聞を広めよう、というようなことが企図されたことがあった。ところがこの研究会は後述する理由で挫折してしまい、その後、希望者が寄稿する定期刊行の雑誌へと発展的に解消することになる。本稿は、これらの出来事にまつわるとりとめのない回想と、定期刊行雑誌に掲載された論考に対する雑駁な感想などを、非体系的な仕方で並列していくものである。(なお、以下で語る出来事は、研究会や雑誌が企画された中枢からはやや離れた場所でほぼ傍観していた私の視点から見た印象に基づくものであって、詳細の不知やそもそもの記憶不鮮明等に基づく内容不正確な箇所が多々潜在している可能性があることは先に断っておきたい。)

さて、私が所属した大学院が、研究会設置当時いかなる場所であったかを説明することが、かかる私的研究会開設の目論まれたいきさつを理解する一助となるであろうから、まずはそこから書きたいと思う。あれは、院生室等の入った建物の改修工事がちょうど終わった時期にあたったかと思われるが、改修前のその建物においては、なるほど老朽化は進んでいたものの、各院生室間の交流が盛んであり、研究分野をまたいだ議論も活発になされていたという(伝聞調で語っているのは、改装前の状態を伝聞でしか知らないからである)。ところが、改装工事にあたって、各室にセキュリティロックが設けられることとなり、たとえば隣の院生室に入っていくにしてもそうそう気軽には行えない(内側からセキュリティを解除してもらわなければならない等)という状況が生じた。セキュリティロックに関しては、各室に諸々の稀覯書の類が無造作に置いてあるということもあり、必要な措置であったものと思われるが、思わぬ副作用も伴った。つまり、各院生室間のやりとりが少なくなり、様々な専攻分野の院生たちが(同室の者同士を除いて)お互いに疎遠になってしまったのである。このような状況を改善すべく企画されたのが上記研究会であった。

この研究会は、各院生室から独立して設置されて院生一般に開放されているサロン室のような場所において行われることとなった。昔のことなので記憶も定まらないところがあるが、確か、週に一回、報告担当の院生が各々の専攻分野において何を研究しているかごく簡単な概要を報告し、その後報告者と研究会出席者の間で質疑応答や議論が行われる、というような形式で行われていたものと思う。ところが、研究会に限らず、この種の有志の集まりを維持するにあたって厄介なのが、参加者のモチベーションをいかに維持するかという問題である。特に報告担当にはやはり相応の負担がかかるもので、かといって報告者にせよ他の参加者にせよ、研究会に参加したところで特段の(少なくとも短期的な・目に見える形での)利得を得られるわけでもなく、そうなるといきおい参加への意欲も減退しがちとなる。このような状況であったので、当該研究会を創設したある種カリスマ的な人物の留学を機に、開催のスパンは徐々に延びてゆき、ついには研究会そのものが自然的に消滅してしまう成り行きとなった。

とはいえ、このころの遺産が何一つ残らなかったというわけでもない。

まず、少なくとも初期段階においては、実定法学系・基礎法学系・政治学系という異分野間の交流がある程度達成され、参加者においては、お互いについてあれこれの理解が深まったのではないかと推察される。私もまた、異分野の院生たちが自分の専攻分野とはかなり異なる文化を共有しているらしいということを、研究会に関連するいくつかの出来事を通して学んだ。今でも印象に残っているのは、異分野の院生たちが開催する立食パーティに、研究会のメンバーとともに招かれて参加したことである。聞くところによると、その分野においては院生同士の関係・結束が密であり、このような交流の場が屡々設けられているらしいとのことであった(そのとき、元来引っこみ思案な性分の私は、こうした快活な趣に今一つ適応しきれず、傍目から見れば、やや居所なさげにしていたように見えたかもしれない)。こうした院生同士の密な交流は、私の専攻分野では(少なくともそのパーティに招待された時点での私の周りでは)あまり見られないものであったので、新鮮な印象を抱いたものである。

また、先にも触れた、有志による定期刊行の雑誌が著わされるに至ったのもある種の遺産としてみてよかろう(とはいえ、研究会の消滅と雑誌の創刊のあいだに真の因果関係があったかどうかは大いに疑いを差し挟む余地のあるところでもあるのだが)。この雑誌は、研究会の創設者の去ったあと、彼に大小の関わりのある人物たち数名が編集人兼執筆者として立ち上げたものである。表向きには、研究科内部の、極ごく狭い範囲に限定して配布されたものであるが、伝え聞くところによれば、何処の図書館の雑誌書棚にこっそりと配架されたらしいとの由である(これも伝聞のことなので、真偽のほどは定かではない)。その内容は、およそ法学研究科内部で物されたものとも見えないような、法学とは縁もゆかりもなさそうな論考の並べられたものであり、あたかも各学部各分野の(とは言っても当然いわゆる文系科目への偏りはあるわけだが)院生たちが法学研究科内部に密かに集結して書き上げたのではないかと、疑わせるような代物であった。

もっとも、私が感銘を受けたのは、その内容の(私の見る限りでの)高度さもさることながら、そもそも学生が有志でこのような雑誌を立ち上げ、あまつさえ(私が確認できる限り)二十号近い号数を発刊するという、いわば実行・実現への不断の熱意であり、20世紀初頭から中葉にかけて(あるいはそれ以前、それ以後もまたそうであるかもしれないが)、様々の前衛雑誌を精力的に発した芸術家・思想家たちの営為などを想起せずにはおれなかった。しかも、ともすれば相対的に保守的な(?)学問領域とみなされがちな法学の内部からこのような運動が生じたのであるからなおさらである。私もまた、半ば偶然にではあるもののこの営みに参画することを許されたわけであるが、これによって、私の逼塞した、というといかにも大げさであるがやや停滞気味であった(かもしれない)院生生活に、思わぬ清爽なる感覚がもたらされた様に感ぜられたのは否定できない(このような書き方をするとなにか関係者に向けた媚言を連ねているように見えないでもないが、事実そのように感じたのであるから仕方がない)。

さて、以下では、冒頭で予告した通り、当該雑誌に掲載された論考のうち、いささかでも法学に関連するであろうと思われるものを選び出し、(これは出典を簡単には確認できないものであるのが恐縮であるが、)若干の感想を述べて、ひとまずは擱筆したいと思う。

「映画論と憲法学」と題された論文は、現状の憲法学において、憲法についての学よりは、むしろ憲法についての学についての学——たとえば、端的な「国家学」ではなく、「『ケルゼンの国家学』学」——の方がより有力な学的潮流として存在していることを指摘し、それを(現象学の用語を引いて)「本質学の事実学による代替」であると喝破している。私は門外漢ゆえにこの指摘がどの程度あたっているのかを論ずることはできないが、理論の主たる検討対象(たとえば憲法)の検討を現在のわれわれが行うにあたって、過去の論争史やその一部をなす過去の学者の理論がどのような関連性を有するかという問題は、憲法学に限らず、たとえば私の専攻する分野においても、それ自体が相当に論争的であるように思われる。このことに関連して思い出されるのは、哲学者W. V. O.クワインが哲学史講義をたまらなく苦手としていたという逸話で、彼としては、講義をするにしても、過去の哲学者が何を考えたかよりは、むしろ直接に真理を探究しそれを伝えるということにより魅力を感じてい
たらしい。とはいえ、現在主流となっている大小さまざまな論点も、元をただすと過去の論争史にかなりの程度依存してその内容が決定されているとみられる場合もあり、その論争が対人論法の応酬を経ているようなケースでは、むしろその歴史をおさえておいたほうが、現在の論点の理解が深まる(あるいは極端な話、論点そのものが解消する)という可能性もあるかもしれない。いずれにせよ、研究とはなにかと一筋縄ではいかないと感ずる話ではある。

「海外研究エッセイ」

よその国ではランチは誰と何時に食べるのか? 許淑娟
「旅をするということは、自分が他の国について間違っていることに気づくことだ(To travel is to discover that everyone is wrong about other countries.)」とアメリカの詩人が言っていたそうだけど、私もいろいろと間違っていた。私の場合は旅というわけではなく、在外研究である。2017年9月から二年間の在外研究の機会を得て、韓国のソウル大学法学研究所と英国のケンブリッジ大学ローターパクト国際法センターでそれぞれ一年ずつ過ごした。実のところ、それほど驚きのない二年間なのではないかと高をくくっていた。私が韓国に住んでいたのは小さい頃と学部時代の数年だけだったが、それでも、両親に会うために時々帰っていたし、勝手知ったる我が祖国、我が母校と思っていた。英国は住んだことはなかったけれど、短期で訪れたことは何度かあったし、本やドラマで見知った馴染みのある国だと思っていた。私の研究室には東大出版会の本よりもケンブリッジ大学出版会の本の方がはるかに多いぐらいだから、読んだものを確認しに行くぐらいだろうと思っていた。油断していた。いろいろ間違っていた。

韓国では私自身が歩くタイムカプセルのように、「20年前はこうだったのになあ」と毎日地味に驚くことになった。学食の値段が3倍になっていた。物価の上がらない日本に慣れてしまったせいで、世界の常識(物価も賃金も通常は上がる)も忘れていた。もっとも、IMF危機以降の韓国社会の変動は世界の常識をはるかに超えるレベルだったそうだ。20年前も日本に比べて貧富の格差は大きいなと思っていたけれど、今はそれどころではなかった。ジニ係数なんて調べなくても、新世界という名のセレブなデパートと南大門にある在来市場を往復しただけで、「富益富貧益貧(富める者は益々栄え、貧しいものは益々貧しくなる)」という言葉を実感できた。

初めての英国では語学力不足も相まって戸惑うばかり。そもそも、最初の最初、人としての基本である挨拶からついていけなかった。How are you? と言ったらHow are you? と返されたのである。質問に質問で答えるのはおかしいだろうと思ったけれど、日本語の「こんにちは」だって、「今日は、ご機嫌いかがですか?」の略だという考えれば、日本語を話す我々だって毎日やっていることだ。こんにちは?と聞かれて、こんにちは?と質問に質問で答えている……と、日本語に引き寄せて考えてみたりするけれど、やっぱり違和感はぬぐえない。

さて、今日は、私の気づいた間違いの一つを披露しようと思う。この勘違いで事件が生まれたり縁がつながったり研究が深まったわけではない。単に「こんなもんだろう」と心の中でひそかに思っていたことが間違っていたので、ちょっと調べてみたら、すっきりしたというだけである。何を間違っていたかというと各国のランチについてである。

まずは韓国である。私の間違いは、韓国では一人でランチを食べるのは万死に値すると思っていたことだ。しかし、そうでもなかった。私が大学生だった1990年代の後半、ソウル大学の学食で一人でランチを食べている人を見かけることはほぼなかったように思う。寄宿舎食堂は別にして、キャンパスの中の食堂では、先輩後輩あるいは友人が連れ立って食事をしているのが常であった(そして先輩はおごってくれた)。これを裏付けるエピソードとして、私が東京の大学院に進学したとき、韓国からの留学生はお昼時になるとみな誘い合って食事に行っていたのを日本の院生たちが驚いていたことを思い出す(日本の院生はみんなバラバラに食べていた)。それぐらい食事はみんなで食べるものだった。ところが、2018年、人々は、都合や予定に応じて、連れ立って食べることもあれば、一人で食堂で食べることやカフェで軽く済ませるようにもなっていた。グルメサイトをみると「ホンパプ(혼밥:ひとりごはん(ホンジャパプ혼자밥)を短くした言葉)におすすめ」と書かれているレストランもたくさん見かけるようになった。

ネットで検索してみると、ホンパプという言葉は2016年頃から使われ始めたようである。この言葉が流行語となったのを見る限り、韓国で生まれ育った人々にとっても、ひとりごはんというのは新しい現象だったのであろう。もっとも、はるか昔、朝鮮時代、両班のいたころは、一人ひとり、お膳で食べていたのであり、ホンパプこそ「伝統的」であるという主張も可能である。『アリランの歌(金三&ニム・ウェイルズ)』(岩波文庫、1987)という1930年代を描いた小説にも、中国人はみんな集まって食事をするが韓民族は一人で食べるといった表現がある。ここまで遡ると、もはや別の話である。いずれにせよ、一人でランチを食べても万死に値しないのは確かなようである。

次に英国であるが、英国のランチで驚いたのはお昼休みの時間が1時からだったということである。てっきりどこもお昼休みとは太陽が最も高くなる時間イコール正午から始まると思い込んでいた(日本も韓国も、たしかアメリカも12時からだった)。研究者たちなので、皆さん各自、仕事のきりの良いところで食事をとるのだが、「ランチタイムといえば?」という共通認識を尋ねれば、ランチタイムは1時なのである。ドイツから来た研究者も1時と答え、フランスは12時、スペイン人は「我々にはシェスタ(お昼寝)があるよ」と笑う。スウェーデンに出張に行ったときに、そこの大学で働いている研究者が「お昼休みなら時間がある」というので1時ぐらいかと思ったら、11時半に待ち合わせを設定されて、ますます分からなくなった。

お昼の中身は、予想通り、サンドイッチが多い。デスクで食べることもあれば、オフィスにある簡単なキッチンで、あるいは外のベンチで、スマホを片手にサンドイッチを一人食べている人もよく見かけたし、それぞれサンドイッチを持ち寄っておしゃべりしているグループも見かけた。ただ、私が滞在したケンブリッジ大学の教職員たちは、大学の食堂での食事代がお給料に含まれている(あるいは、かなりの補助を受けている)ようなので、大学食堂で食べている人が多いようである(ケンブリッジ大学の各食堂の雰囲気は立教の第一食堂にやや似ている。ハイテーブルがあったりなかったりするのが興味深かった)。「ランチクラブ!」と職場のみんなに呼び掛けて、パブでお昼を食べているグループも見かけた。

英国から範囲を広げることになるが、ヨーロッパでは一体何時にお昼を食べて、ひとりごはんが多いのか連れ立って食べるのが多いのかがわかる統計を見つけた。少し古いが2010年に、ヨーロッパの人々が一日のどの時間帯にそれぞれ何割食べているかを示した統計(Eurostat, 2010)である。それによると、フランス人は人口の半分が12時にランチを取り、イタリア人は約4割の人が1時に、スペイン人も約4割が2時にご飯を食べていることが分かった。英国やドイツは、パターンが見当たらなかった。なんとなく、1時ぐらいに2割ぐらいの人がランチをしている様子である。どうやら、北ヨーロッパ(英独)では1時ぐらいにランチを食べるけど、みんなが同じ時間に食べるのはまれで、それぞれが好きな時間に簡単に済ませているようである。他方、南ヨーロッパ(仏伊西)は、時間帯はそれぞれだが、4割以上の人が決まった時間に食べているので、連れ立って食べている可能性も高そうである。もっとも、2008年のリーマンショック以来、南ヨーロッパでも2時間という長いお昼休みを認める職場は減り、1時間に減っているという。

韓国の例もそうであるが、全世界的に(日本も含めて)、もはやランチタイムというのは、仕事を中断させるものととらえられてきているのかもしれない。さっさと済ませるものとして扱われているのかもしれない。ランチタイムというのは重要な社会的なリズムであり、一日のメロディを際立たせる休止符かもしれないのに(Bee Wilson, The Way We Eat Now(Fourth Estate, 2019))。

散々よその国のランチについて愚にもつかないことを書いてきたけれど、最後の最後に慌てて、教訓めいたことを書いてみよう。それは、語学ができてインターネット等で常に現地の情報を収集していても、多かれ少なかれ、見たいものや見なければいけないと思っていることしか目に入ってこないということである。外国に住んでみないと気づかない間違いや疑問というのは、ランチ事情という些細なことから、国際秩序に対する視座という大きなことまで、実はたくさんあるわけで、外国に身を置くという経験はおばあちゃんおじいちゃんになっても挑むべき冒険であるということを読んでくれた人に伝えたいと思う。